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KEN五島(五島健太郎)のWEB SITE 朝日新聞寄稿文 北海道の炭鉱遺産を撮る

〜北海道の炭鉱遺産を撮る〜

朝日新聞「北の文化」寄稿文2010/3/11より



朝日新聞.jpg1999年の夏、北海道をバイクツーリングしながら風景写真を撮影していた私は、夕張市の大夕張鹿島という地区を偶然通りかかった。大夕張は炭鉱の街だったが閉山となり、97年に住民の退去が完了した。誰もいない街に響き渡る虫の声と、街を覆うセイタカアワダチソウなどの植物。人の気配が急速に消え、自然にかえりつつあるその表情に大きく心を動かされた。バイクから降りることも出来ず、ただ眺めるだけだった。

私はその3年前に初めて北海道を訪れ、美しい大地の姿に感銘を受けて毎年のようにバイクなどで撮影旅行をしていたのだが、大夕張鹿島との出会いが転機となった。この時、私は炭鉱遺産という存在を初めて意識した。人の残した産業構造物が自然にかえり行く時の表情、それを撮りたいという強い思いを抱いたのだ。

当初はモノクロで撮影し、東京に帰ってから仕事の合間に現像プリント処理をしていた。東京育ちだが、そこでの生活はどこか空虚さも感じていた。フィルムに焼き付けられた炭鉱遺産の姿は、そんな私の心をとらえ、故郷を思い焦がれるように思いはつのっていった。そして、北海道での写真の仕事の依頼をきっかけに、01年冬に東京を出る決心をした。

札幌に移り住み、各地の炭鉱遺産を撮り歩いていたある日、義母から義祖父が羽幌炭砿の保安監督員だったという話を聞いた。それまで羽幌に炭鉱があったことを知らなかった私は、さっそく羽幌炭鉱を訪ねた。築別から入り、本坑という地域に差しかかった時、大夕張鹿島に出会ったとき以上の衝撃を受けた。深い緑の森に、真っ白な運搬立坑がたたずんでいたのだ。かつて山奥に栄えた炭鉱が、人が去り三十数年の時を経て、自然と融合しつつあるその表情。私の目には、廃虚の侘しさではなく、生命力あふれる姿として映った。

それ以来、撮影の多くを羽幌炭鉱に費やしたが、それは充実した時間だった。そして05年前後に、撮りためた作品を写真展にて発表する機会に恵まれた。そこで多くの方々と知り合い、ドイツ・ルール地域炭鉱遺産の撮影旅行が実現した。

ドイツでの撮影では「産業的自然(インダストリアルネイチャー)」という概念を知ることができた。これは、人の手を離れた産業構造物が、自然に取り込まれていく姿に芸術的な美しさを見いだすものだ。ドイツなどでは古くからこうした概念があるようで、炭鉱遺産再生の活動の柱となったという。ランドマーク的な遺産を、あえて手を入れずに、植物に覆われたり自然に朽ち果てたりするに任せ、そこに価値を見いだすのだ。こうした概念は、私の産業遺産への思いと通じるものがあった。人の手を離れ打ち捨てられた産業構造物たちは、数十年の年月を経ることで自然との融合を果たし、新しい姿を獲得した。そこには、寂しさや侘しさではない生命力溢れる美しさがあると感じたことが、私を炭鉱遺産の撮影に駆り立てたのかもしれない。そうした美しさを芸術的に表現することで、炭鉱遺産の新しい価値を未来に向けて創造していけるのではないか。こうした「産業的自然の宝」は、北海道には数多くあると考えている。


その後も、写真技量向上のための勉強をしつつ炭鉱遺産を撮り続け、今年2月には10年分の写真を盛り込んだ初の写真集を出せることになった。この写真集には、北海道の大地や人々への恩返しの気持ちを込めている。そして、掲載する写真にはこれまでにない新作も入れたいと思い、空撮も行った。

空知地方の炭鉱を上空から次々に撮影していくと、夏の深い森に覆われた炭鉱住宅や煙突など、見たことのない豊かな景色が現れた。最終目的地の羽幌本坑運搬立坑上空に到着したとき、胸が熱くなった。深い森のなかにすっと立つ運搬立坑は、大地にしっかりと根を下ろし自然に融け込んだ魅力的な表情をみせていた。写真集の表紙には、この運搬立坑の空撮写真を使った。


北海道は百数十年という短い期間に、開拓、鉱山開発、閉山を経験した希有な歴史を持つ地域である。かつて数万を超える人口を抱えた北海道の炭鉱街の多くは、住む人もほとんどない過疎地域となっているが、訪れる人に優しく語りかけるものを持っている。それを、写真を通じて伝えたいと思っている。
     ◇
 1974年、愛知県生まれ。写真集「北海道炭鉱遺産」(アスペクト)を2月に出版。